コルベ神父によってコンベンツアル聖フランシスコ修道会の基礎が置かれて以来、多くのポーランド会員が来日しました。印刷所、小神学校、修練院が開設され、日本人の会員も生まれました。

1940年本修道会本部は、それまで本修道会内の組織の中では宣教区であった聖母の騎士修道院を、 ポーランドのワルシャワ管区から切り離して、ローマ本部直属の準管区としました。ヨーロッパでは第2次世界大戦が始まり、日本とポーランドの交信が途絶えたからでした。最初の準管区長は、1936年以来聖母の騎士修道院長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父でした。

1940年には政府の指示で、聖母の騎士誌が休刊となりました。こうして、コンベンツアル聖フランシスコ修道会の日本における唯一の活動であった出版は中止しなければなりませんでした。ポーランドや米国からの財政援助が行なわれなくなり、経済的に苦境に陥りました。1945年8月には、ポーランド会員たちの大部分は熊本県の栃木(とちのき)の外国人収容所に送られました。

終戦とともに活動が再会されました。1946年には聖母の騎士小神学校が聖母の騎士学園中学校として文部省から認可を受け(1949年には聖母の騎士学園高等学校が認可される)、 養護施設の聖母の騎士園が発足しました。1947年には3人の最初の邦人司祭が叙階されました。

その後、長崎県の小長井、湯江、東長崎、東京都の赤羽、王子と亀有、兵庫県の西宮市、愛知県の瀬戸市と春日井市、 大分県の湯布院に活動の場を広げました。活動も、これまでの出版活動のほかに、小教区、教育、福祉の領域に進出しました。

日本のコンベンツアル聖フランシスコ修道会は準管区でしたが、 1969年に総会議において正規管区に昇格し、第1回目の管区会議が開かれました。

日本管区はポーランドのクラクフ管区とワルシャワ管区を母管区として設立されましたが、 米国の聖アントニオ管区(エリコット・シティーに本部をおく)は1954年に鹿児島県奄美群島の宣教と司牧をカプチン・フランシスコ会から引き継ぎ、 宣教区を開設しました。同宣教区は1970年に奄美大島分管区になりました。同分管区は1982年に米国の母管区から分離され、日本管区に移管されました。

日本と関係を持ったコンベンツアル聖フランシスコ修道会員としては、コルベ神父が最初ではありません。17世紀にフランシスコ・アントニオ・フラッセッラが日本の司教に任命されましたが、鎖国のために入国することができませんでした。