【小さき兄弟会】
小さき兄弟会は1210年にアッシジのフランシスコによって創立されましたが、16世紀から17世紀にかけて「フランシスコ会」、 「コンベンツアル聖フランシスコ修道会」と「カプチン・フランシスコ会」の三つの独立した修道家族に分かれます。

12名の若者の共同体であった「小さき兄弟会」は急速に発展します。その活動の分野は広がり、組織も複雑になって行きます。1210年にインノセント3世から「原始会則」の認可を受けますが、 この素朴な規則では対処するのが困難になります。そこで新しい規則が求められます。1223年に新しい会則が起草され、教皇庁によって「勅書によって裁可された会則」が認可されました。小さき兄弟会の三つの修道家族はこの会則に従って生活しています。

小さき兄弟会はイタリア半島ばかりでなく、ヨーロッパ全土、北アフリカ、パレスチナおよびシリアへと広がって行きます。会員たちは、宣教のために、中国にも赴きます。活動も福音宣教、信徒の司牧、学問、教育、福祉活動の分野に及びます。神学・哲学の分野で貢献した小さき兄弟会員としては、ヘールスのアレキサンダー、 ボナベンツラ、ヨハネ・ドゥンス・スコートゥスなどが知られています。

時代とともに小さき兄弟会は発展し、種々の活動に伴って、初期の素朴さや厳しい貧しさは徐々に姿を変えて行きます。生活も緩やかになってゆきます。このような経過の中で、初期の素朴な生活と厳しい貧しさへ戻ろうと言う動きが芽生え、 改革運動が始まります。こうして、14世紀には小さき兄弟会にはコンムニタス(コンベンツアルとも呼ばれた)という 「共同体派」とオブセルバンテスという「改革派」の二つの流れが生まれます。

共同体派は大きな修道院に住んで、共同体生活を大切にし、主に都市部で人々の奉仕にあたりました。改革派は初期の頃は小さな修道院や山の庵に住んで、観想生活を主としました。時代とともに、改革派も大きな修道院共同体を作り、都市部でも活動するようになりました。また、改革派のほうが会員の数においても活動の面でも、主流派である共同体派を凌駕するようになります。

【小さき兄弟会の分割】
1517年教皇レオ10世は、小さき兄弟会を共同体派の流れを汲むコンベンツアル兄弟会(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)と 改革派の流れを汲む小さき兄弟会(フランシスコ会)とに分割し、こうして小さき兄弟会は独立した二つの修道会となります。間もなく小さき兄弟会(フランシスコ会)からはカプチン小さき兄弟会(カプチン・フランシスコ会:1619年に独立した修道会となる)が分かれ、 小さき兄弟会は三つの独立した修道会となります。三つの修道会ともアッシジのフランシスコが書いた同じ会則に従って生活しますが、それぞれ異なった会憲を持っております。

【コンベンツアル聖フランシスコ修道会】
1517年の小さき兄弟会の分割後、コンベンツアル聖フランシスコ修道会は一時期困難な歩みをたどりますが、 その後活力を取り戻し、18世紀には会員25,000人を数えます。しかし、フランス革命とナポレオンの施政および西欧社会における修道会廃止令によって大きな打撃を受けます。多くの国々で修道院は没収され、会員たちは教区司祭になるか、個人で修道生活を送るか、または還俗するかの道を選ばなければなりませんでした。

19世紀後半以降なって再び力を回復します。20世紀になると目覚しい発展を遂げ、19世紀の初期には会員の数が約1,000人でしたが、 20世紀後半には約5,000人の会員を数えるようになっています。

このような発展の過程において、アウシュヴィッツの聖者と言われる聖マキシミリアノ・コルベが果たした役割は大きいものでした。神父は第2次世界大戦の初期に、ナチスの収容所に収監され、1941年8月14日にアウシュヴィッツの収容所で一人の父親の身代わりになって、 餓死監房で愛の殉教を遂げました。

参考文献
1、カエタン・エッサー著、伊能哲大訳「フランシスコ会の始まり」(新世社)
2、川下勝著「フランシスカニズムの流れ」(聖母の騎士社)